宝塚歌劇団で男役トップスターとして輝いた真飛聖。幼少期からクラシックバレエに親しみ、舞台人としての素地を育んできた彼女は、宝塚音楽学校への挑戦を経て、星組・花組で数々の名舞台を築き上げました。
退団後は女優として映像作品にも活躍の場を広げ、舞台で培った表現力を新たなフィールドで発揮しています。若い頃の写真に見られる印象の変化や整形疑惑に対する世間の反応も含め、真飛聖の歩みには多くの注目が集まっています。
彼女の人生をたどることで、舞台人としての覚悟と成長の軌跡が見えてきます。
【この記事のポイント】
- 真飛聖が宝塚音楽学校に挑戦し、トップスターに至るまでの経緯
- 幼少期の習い事や家庭環境が舞台表現に与えた影響
- 若い頃の写真に見られる印象の変化と整形疑惑への見方
- 退団後の映像作品で発揮される舞台経験と演技力
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真飛聖の若い頃は宝塚で男役トップに
幼少期からクラシックバレエに親しむ
真飛聖は3歳の頃からクラシックバレエを習い始めています。幼いながらも芸事に強く惹かれた背景には、音楽好きな母親の影響がありました。バレエ教室の生演奏に魅力を感じた母が、自然な流れで娘を教室に通わせたことがきっかけです。
バレエ以外にも、水泳、習字、ピアノなど多彩な習い事を経験しており、幼少期から表現力や身体の使い方を磨く環境が整っていました。本人は後になって「そんなにやりたいと言った記憶はない」と驚いたそうですが、母親は「あなたがやりたいと言った」と語っており、家庭内では子どもの意志を尊重する方針が貫かれていたことがうかがえます。
クラシックバレエで培った身体感覚や舞台での所作は、後の宝塚での男役においても大きな武器となりました。特に男役では、立ち姿や歩き方、視線の使い方など、細かな身体表現が求められるため、バレエ経験がそのまま舞台表現の土台となったのです。
また、両親は干渉せず見守る姿勢を大切にしており、発表会にも足を運びながらも、本人の選択に口出しすることはありませんでした。こうした家庭環境が、真飛聖の自由な感性と舞台への情熱を育んだと考えられます。
中学3年生で宝塚を知った際も、家族は現実的なアドバイスをしながらも応援してくれました。声楽の試験があると分かればすぐにレッスンを始め、高校受験と並行して準備を進めるなど、幼少期からの積み重ねが宝塚音楽学校合格へとつながっていきました。
宝塚音楽学校への入学と初挑戦

真飛聖が宝塚音楽学校を初めて受験したのは、高校在学中のことです。中学3年生のときに宝塚の存在を知り、舞台への憧れが芽生えました。クラシックバレエの経験を活かしながら、声楽のレッスンも始め、受験に向けて準備を進めました。
最初の受験では不合格となりましたが、その結果に落ち込むことなく、翌年に再挑戦する決意を固めます。高校は中退し、宝塚音楽学校への合格を目指して本格的なレッスンに打ち込みました。親元を離れて寮生活を始めるなど、環境の変化にも柔軟に対応しながら、自分の夢に向かって努力を重ねていきました。
2度目の受験で見事に合格を果たし、1993年に宝塚音楽学校へ入学します。入学後は厳しいレッスンの日々が続きましたが、舞台人としての基礎を築く貴重な時間となりました。音楽学校での生活は、規律や礼儀を重んじる環境でありながらも、仲間との絆や舞台への情熱を育む場でもありました。
この時期の経験は、後の宝塚歌劇団での活躍に直結する重要な土台となっています。初挑戦の不合格を乗り越え、夢を諦めずに再挑戦した姿勢は、真飛聖の芯の強さと表現者としての覚悟を物語っています。
2度目の受験で音楽学校に合格
真飛聖は高校在学中に宝塚音楽学校を初めて受験しましたが、その時は不合格という結果でした。落ち込むことなく、翌年に再挑戦することを決意し、高校を中退して受験に専念する道を選びました。親元を離れて寮生活を始め、声楽やバレエのレッスンに集中する日々が始まります。
2度目の受験では、クラシックバレエで培った身体表現や舞台経験が評価され、見事に合格を果たしました。1993年に音楽学校へ入学し、厳しい規律の中で舞台人としての基礎を徹底的に学びました。授業は声楽、ダンス、演技など多岐にわたり、日々の生活も時間管理や礼儀作法が重視される環境でした。
音楽学校での生活は、単なる技術習得だけでなく、舞台に立つ者としての心構えや責任感を育む場でもありました。同期との関係性も深まり、互いに励まし合いながら成長していく姿勢が、後の宝塚歌劇団での活躍につながっていきます。
この時期に身につけた基礎力と精神力は、舞台での表現に深みを与える要素となり、真飛聖が男役として観客の心をつかむ存在へと成長する土台となりました。
星組での初舞台と新人公演主演

真飛聖は1995年に宝塚歌劇団へ入団し、星組の公演『国境のない地図』で初舞台を踏みました。81期生としてのスタートは、舞台上での立ち姿や所作にすでに男役としての資質が感じられ、同期の中でも早くから注目される存在でした。
初舞台後は星組に正式に配属され、1996年から1998年にかけて複数の新人公演で主要な役を任されるようになります。1997年には『誠の群像』で加納惣三郎役を演じ、舞台上での安定感と表現力が評価されました。さらに1999年の『我が愛は山の彼方に』では朴秀民役で新人公演初主演を果たし、男役としての地位を確立する大きな転機となりました。
その後も『ベルサイユのばら』『花の業平』などで新人公演主演を重ね、演技の幅を広げていきます。特に『ベルサイユのばら』ではオスカル役を演じ、力強さと繊細さを併せ持つ演技が高く評価されました。舞台上での存在感は年々増し、観客の視線を自然と引きつける力を持つようになっていきます。
星組時代の真飛聖は、少年らしい軽やかさと男役としての力強さを併せ持つ独特の雰囲気を放っていました。舞台経験を重ねるごとに、役柄への理解と表現力が深まり、若手ながらも安定した演技を見せる存在として信頼を得ていきました。
この時期の活躍が、後の花組への異動やトップスター就任への道筋をつくる重要な基盤となっています。
花組への異動とトップスター就任
真飛聖は2005年に星組から花組へ異動しました。10年間にわたり星組で経験を積み、男役としての表現力や舞台での安定感を磨いてきた彼女にとって、この異動は新たな挑戦の始まりでした。花組では、当時トップスターだった春野寿美礼の下で経験を重ね、舞台の空気や組のカラーに馴染んでいきました。
異動後は、バウホールや日本青年館での主演を重ねながら、花組の中核としての存在感を強めていきます。2006年には『MIND TRAVELLER』で東上公演の単独主演を果たし、男役としての深みと静かな強さを表現する演技が注目されました。
2007年には春野寿美礼の退団に伴い、花組トップスターに就任します。トップスターとしての初舞台は『愛と死のアラビア/Red Hot Sea』で、相手役には桜乃彩音を迎えました。その後も『太王四神記』『ME AND MY GIRL』『麗しのサブリナ』など、話題作に次々と主演し、花組の顔として活躍しました。
トップスターとしての真飛聖は、力強さだけでなく柔らかさや品格を兼ね備えた男役として評価されていました。舞台上での立ち姿や声の響き、細やかな感情表現に至るまで、観客の心をつかむ演技を見せ続けました。ファンとの距離感も程よく、舞台挨拶やイベントでの対応も丁寧で、組全体の雰囲気を穏やかに保つ存在でもありました。
花組でのトップスター時代は、真飛聖にとって宝塚人生の集大成とも言える期間であり、舞台人としての成熟が色濃く表れた時期でもあります。
トップ時代の代表的な舞台作品

真飛聖が花組トップスターとして活躍した時期には、数々の話題作に主演しています。2009年の『太王四神記』では、主人公タムドク役を演じ、壮大なスケールの物語の中で王としての威厳と人間的な葛藤を繊細に表現しました。重厚な衣装と力強い立ち姿が印象的で、観客の目を引きつける舞台となりました。
同年には『相棒』の舞台版にも主演し、テレビドラマでおなじみの世界観を宝塚らしい演出で再構築しました。刑事役としての冷静さと情熱を併せ持つ演技は、男役としての新たな一面を見せる機会となり、幅広い層の観客から支持を集めました。
2010年には『ファントム』でエリック役を演じ、仮面の下に秘めた孤独と愛情を歌と演技で表現しました。この作品では、歌唱力が特に際立ち、繊細な感情の揺れを音楽に乗せて届ける力が高く評価されました。舞台全体の空気を支配するような存在感があり、観客の心に深く残る作品となりました。
その他にも『ME AND MY GIRL』『麗しのサブリナ』『虞美人』など、ジャンルの異なる作品に次々と主演し、コメディから歴史劇まで幅広い演技力を発揮しました。どの作品でも、役柄に応じた声の使い方や動きの工夫が見られ、舞台人としての成熟が感じられる時期でした。
トップスターとしての真飛聖は、舞台の中心に立ちながらも周囲との調和を大切にし、作品全体の完成度を高める役割を果たしていました。観客の記憶に残る舞台が多いのは、その姿勢と技術の積み重ねによるものです。
宝塚退団までの歩みと節目
真飛聖は2011年4月24日、東京宝塚劇場での千秋楽をもって宝塚歌劇団を退団しました。1995年の初舞台から数えて16年間にわたり、星組・花組で男役として活躍し続けた舞台人生の節目となる日でした。
退団公演は『愛のプレリュード/Le Paradis!』で、芝居とショーの二本立て構成でした。芝居ではボディーガードのフレディー役を演じ、過去の相棒との再会や葛藤を描く物語の中で、男役としての集大成とも言える演技を披露しました。白いロングコート姿で登場する冒頭の演出は、旅立ちを象徴するような印象的なシーンで、観客の感情を揺さぶるものとなりました。
ショーでは、華やかなレビュー形式の中にサヨナラのムードが織り込まれ、組子との絆や舞台への感謝が随所に表現されていました。銀橋を一人で渡るラストシーンでは、男役トップスターとしての風格と、これまでの歩みが凝縮されたような静かな余韻が残りました。
この公演は、東日本大震災の直後に開催されたこともあり、終演後には観客に募金を呼びかける場面もありました。舞台人としての責任感と人間性が感じられる姿勢に、多くの人が心を動かされました。
退団後のインタビューでは、「宝塚は想像を超える幸せな空間だった」と語り、舞台への深い愛情と感謝の気持ちを表しています。新たな道への一歩を踏み出すその姿は、舞台人としての誇りと覚悟に満ちていました。
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真飛聖の若い頃の印象と写真の変遷
男役時代の凛とした顔立ち

真飛聖の若い頃の写真を見ると、男役としての凛とした顔立ちが際立っています。シャープな輪郭と引き締まった表情は、舞台上での存在感を強く印象づけるものでした。特に目元には力があり、視線の使い方ひとつで役柄の感情を伝えることができるほどの説得力がありました。
舞台メイクとの相性も非常に良く、陰影を活かしたメイクによって骨格の美しさが際立ち、男役としての立体感が生まれていました。眉の角度やアイラインの引き方など、細部にまでこだわったメイクが、彼女の顔立ちをさらに引き締め、舞台映えする印象を強めていました。
宝塚の男役は、単に男性的な外見を演じるだけでなく、内面の強さや品格を表現することが求められます。真飛聖はその両面を兼ね備えており、若い頃から写真に写る表情には、役柄に対する深い理解と舞台人としての覚悟が感じられました。
また、舞台上での立ち姿や動きにも顔立ちとの一体感があり、全身で男役を演じているという印象を与えていました。写真だけでなく、実際の舞台でもその凛々しさは際立っており、観客の記憶に残る男役としての姿を築いていきました。
退団後は柔らかな印象へと変化していきましたが、宝塚時代の写真には、舞台に生きる者としての緊張感と誇りが刻まれており、今もなお多くのファンにとって特別な存在となっています。
若い頃の写真に見られる変化
真飛聖の若い頃から現在に至るまでの写真を時系列で見比べると、顔立ちや雰囲気に少しずつ変化が見られます。初舞台を踏んだ頃は、男役としての凛々しさが際立ち、シャープな輪郭と切れ長の目元が印象的でした。舞台メイクによって強調された骨格や表情は、力強さと緊張感を感じさせるものでした。
トップスター時代に近づくにつれて、表情には柔らかさが加わり、目元や口元に穏やかな印象が見られるようになります。特に退団前後の写真では、舞台上での厳しさよりも、内面の成熟がにじみ出るような落ち着いた雰囲気が感じられます。
退団後は、女優として映像作品に出演する機会が増えたことで、メイクや髪型の変化もあり、より女性らしい印象へと変化しています。目元の二重幅が広がり、鼻筋が整ったように見える写真もあり、顔全体の印象が柔らかくなっています。こうした変化は、加齢による自然な変化に加え、舞台から映像への表現方法の違いにも影響されていると考えられます。
また、写真に写る姿勢や表情からは、舞台人としての緊張感から、女優としての余裕や柔らかさへと移行している様子がうかがえます。若い頃の写真には、役柄に入り込む集中力が感じられ、現在の写真には、表現者としての幅広さと穏やかな魅力が表れています。
このように、写真を通して見える変化は、単なる外見の違いだけでなく、真飛聖が歩んできた舞台人生とその後の女優としての道のりを映し出すものとなっています。
整形疑惑と世間の反応について

真飛聖には、目元や鼻筋の印象が変わったことから整形疑惑が持ち上がったことがあります。特に宝塚退団後、映像作品への出演が増えた時期から、顔立ちの変化に注目が集まりました。若い頃の写真と現在の写真を比較すると、二重の幅が広がっているように見えたり、鼻筋がより通っているように感じられるケースがあります。
こうした変化については、メイクの技術や撮影環境、照明の違いによる影響も大きく、整形と断定する根拠は見つかっていません。舞台メイクと映像用メイクでは求められる印象が異なり、特に舞台では遠くの観客にも表情が伝わるように、陰影を強調したメイクが施されます。一方、映像ではナチュラルさや柔らかさが重視されるため、顔の印象が大きく変わることもあります。
世間の反応としては、「鼻筋が不自然に見える」「目元がぱっちりしすぎている」といった声がある一方で、「メイクの変化ではないか」「年齢による自然な変化だと思う」といった冷静な見方もあります。SNSなどでは整形を疑う声も見られますが、本人が公に認めた事実はなく、演技力や表現力に対する評価は変わらず高いままです。
また、舞台人として長年活躍してきた真飛聖は、役柄に応じて表情や雰囲気を自在に変える力を持っています。顔立ちの変化が話題になる背景には、そうした表現力の豊かさも関係していると考えられます。整形疑惑が取り沙汰されても、演技に対する信頼や支持は揺らいでおらず、現在も女優として安定した活動を続けています。
芸名の由来と読み方のエピソード
真飛聖という芸名は、「まとぶ せい」と読みます。初見では読み方が難しいと感じる人も多いですが、宝塚ファンの間ではすっかり定着した名前です。音の響きが独特で、舞台上でも印象に残りやすく、男役としての力強さと品格を感じさせる名前です。
「真飛」という姓の部分は、母親が読んでいた小説『マートブ!―自由を求めて550日』の主人公「マートブ」に由来しています。その響きが気に入ったことから、芸名に取り入れられました。日本語としては珍しい響きですが、舞台上で発音されたときの力強さと美しさが際立ちます。
「聖」という名前の部分は、尊敬する恩師の名前から一字をもらったものです。舞台人としての敬意や感謝の気持ちが込められており、芸名全体に深い意味が宿っています。漢字の持つ意味や音の響きが調和しており、宝塚の舞台にふさわしい重厚感と華やかさを兼ね備えています。
宝塚では、入団時に本名とは異なる芸名を名乗るのが伝統です。芸名は単なる名前ではなく、新しい自分を表現するための象徴でもあります。真飛聖という名前には、自由を求めて羽ばたく意志と、舞台に立つ者としての覚悟が込められており、彼女の男役としての姿勢を象徴するものとなっています。
舞台での活躍を重ねるうちに、「まとぶせい」という名前は観客の記憶に深く刻まれ、読み方に戸惑う人も少なくなっていきました。今では、宝塚を代表する芸名のひとつとして、多くの人に親しまれています。
本名や学生時代のエピソード

真飛聖の本名は田畑智子です。神奈川県川崎市で生まれ育ち、幼少期からクラシックバレエに親しんでいました。3歳の頃からバレエ教室に通い始め、他にも水泳、習字、ピアノなど多くの習い事を経験しています。家庭では、本人の「やってみたい」という気持ちを尊重する方針が貫かれており、表現力や身体感覚を育む環境が整っていました。
中学時代にはバレリーナを志していたものの、身長の伸び悩みをきっかけに進路を見直すことになります。中学3年生のとき、友人の誘いで宝塚歌劇団の舞台を観劇したことが転機となり、宝塚への憧れが芽生えました。舞台の華やかさと表現の奥深さに心を奪われ、宝塚音楽学校への受験を決意します。
高校は中延学園高等学校(現・朋優学院高校)の普通科に進学しましたが、宝塚音楽学校への合格を目指して声楽のレッスンを開始し、芸能活動とは無縁の生活から一転して舞台人への道を歩み始めます。高校1年のときに宝塚音楽学校に合格したことを機に中退し、親元を離れて寮生活を始めました。
この決断には、舞台への強い憧れと覚悟が込められており、学生時代から夢に向かって一直線に努力する姿勢が貫かれていました。家族の支えも大きく、母親はピアノ教師、兄は作曲家として活動しており、音楽に囲まれた環境が表現者としての素地を育てる一因となっています。
学生時代の真飛聖は、明るく人懐っこい性格でありながら、舞台に対しては真摯で妥協のない姿勢を持っていました。宝塚音楽学校への進学は、彼女の人生における大きな転機であり、後のトップスターとしての活躍につながる重要な一歩となりました。
宝塚時代の仲間との関係性
真飛聖は1995年に宝塚歌劇団に81期生として入団しました。この期には、後にトップスターとなる人物が複数在籍しており、舞台上だけでなく舞台裏でも互いに刺激を与え合う関係が築かれていました。同期には、雪組トップスターとなった壮一帆や、月組トップスターの瀬奈じゅんなどが名を連ねており、それぞれが異なる組で活躍しながらも、同じスタートラインから歩みを始めた仲間としての絆がありました。
宝塚音楽学校時代から、仲間との関係は家族以上に濃密だったと語られています。厳しいレッスンや試験を共に乗り越える中で、悩みを共有し、励まし合う時間が積み重ねられていきました。舞台に立つ者同士としての信頼は、演技やダンスの呼吸にも表れ、共演時には自然な連携が生まれていました。
舞台裏では、役柄を超えた人間関係が築かれており、トップスターとしての責任を背負いながらも、組子との距離を大切にする姿勢が印象的でした。真飛聖は、花組トップスター時代にも、相手役の桜乃彩音や蘭乃はなとの関係を丁寧に育み、舞台上でのコンビネーションに深みを与えていました。
また、組替えを経験したことで、異なる組の文化や人間関係にも触れ、舞台人としての幅を広げる機会にもなりました。星組から花組への異動は、環境の変化だけでなく、新たな仲間との関係構築が求められる場面でもありましたが、真飛聖はその中でも自然体で信頼を築き、組全体の雰囲気を穏やかに保つ存在となっていました。
宝塚時代の仲間との関係性は、退団後も続いており、舞台やイベントでの再会を通じて、互いの成長を喜び合う姿が見られます。舞台人としての原点を共有した仲間との絆は、真飛聖の演技や人柄に深く根付いています。
若い頃の姿勢と現在の活動のつながり

真飛聖は宝塚時代から、舞台に対して真摯な姿勢を貫いてきました。男役としての立ち居振る舞いや、役柄への深い理解、観客との距離感を大切にする姿勢は、舞台人としての誇りと責任感に裏打ちされたものでした。新人公演での主演を重ねる中でも、常に丁寧な演技と安定した表現力を意識し、舞台上での一瞬一瞬に全力を注いでいました。
このような姿勢は、退団後の映像作品にも自然と引き継がれています。ドラマや映画では、舞台とは異なるカメラワークや演技の間合いが求められますが、真飛聖はその違いを理解しながらも、舞台で培った集中力と感情のコントロールを活かして、自然な演技を見せています。特に感情の揺れを細やかに表現する場面では、舞台経験による深みが感じられます。
映像作品では『相棒』『IQ246』『あなたの番です』『その女、ジルバ』などに出演し、刑事役や母親役、キャリアウーマンなど幅広い役柄を演じています。いずれの作品でも、台詞の説得力や表情の繊細さが評価されており、舞台出身の女優としての強みが発揮されています。
また、舞台での経験は、役柄に対するアプローチにも影響を与えています。台本の読み込みや人物の背景を掘り下げる姿勢は、宝塚時代から変わらず、映像作品でもその丁寧さが演技に反映されています。舞台では観客の反応を直接感じながら演じることが求められますが、その経験が、映像でも視聴者の心に届く演技へとつながっているのです。
現在も舞台出演を続けながら、映像作品にも積極的に取り組んでおり、ジャンルを問わず安定した演技力を見せています。若い頃からの舞台への誠実な姿勢が、今の活動の土台となり、女優としての信頼を築いています。
真飛聖の若い頃から現在までの歩みまとめ
- 幼少期からクラシックバレエに親しんでいた
- 音楽好きな母の影響で芸事に自然と触れた
- 高校在学中に宝塚音楽学校を初受験した
- 一度目は不合格も翌年に再挑戦して合格
- 音楽学校では厳しいレッスンに励んだ
- 1995年に星組で初舞台を踏み舞台人として始動
- 新人公演で主演を重ね男役として注目された
- 2005年に花組へ異動し新たな環境に挑戦した
- 2007年に花組トップスターに就任した
- トップ時代には多彩な舞台作品に主演した
- 2011年に退団し女優として新たな道へ進んだ
- 若い頃の写真には凛とした顔立ちが見られる
- 表情の変化には内面の成熟が反映されている
- 整形疑惑もあるが演技力への評価は揺るがない
- 映像作品でも舞台経験が演技に活かされている
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