2025年11月8日、菅谷大介アナウンサーが53歳で死去しました。すい臓がんを公表してからも現場に立ち続け、実況や番組制作に携わりながら、アナウンス部次長として管理職も兼任していました。亡くなる直前まで通常勤務をこなし、最後の実況はカーリング大会。
社内リレーエッセイでは仕事への情熱を語り、SNSでは闘病の様子を発信していました。死因は消化管からの出血とされ、突然の訃報に社内外から多くの哀悼の声が寄せられています。彼の生き方と仕事への姿勢を知ることで、報道の現場に込められた思いが見えてきます。
【この記事のポイント】
- すい臓がんを公表後も実況や管理職を継続していた
- 最後の実況はカーリング大会で冷静な語りが印象的だった
- 死因は消化管からの出血で急変によるものだった
- SNSや社内エッセイで仕事への情熱を発信していた
菅谷大介アナウンサー死去 すい臓がん発覚からの3年間
すい臓がん発覚は2022年1月の人間ドック

2021年11月、箱根駅伝の準備を兼ねて受診した人間ドックで、すい臓に異常が見つかりました。自覚症状はまったくなく、生活習慣にも特段の問題はなかったため、本人にとっても予想外の診断だったようです。お酒はほとんど飲まず、タバコも吸わない生活を送っていた中での発覚でした。
診断後はすぐに治療方針が立てられ、抗がん剤による治療と腹腔鏡手術が行われました。手術は約4時間に及びましたが、無事に終え、2022年4月には仕事に復帰しています。復帰後も定期的な通院と薬の服用を続けながら、アナウンサーとしての業務をこなしていました。
この時期にはインスタグラムを開設し、自身の病状や仕事への思いを発信するようになりました。病名を公表したのは2022年8月で、同じ病と向き合う人たちへの励ましや、周囲への理解を求める気持ちが込められていました。公表後も前向きな姿勢を崩さず、現場に立ち続ける姿が多くの人の記憶に残っています。
腹腔鏡手術を経て4月に職場復帰
すい臓がんの診断を受けた後、菅谷大介アナウンサーは腹腔鏡による手術を受けました。手術は約4時間に及び、体への負担を最小限に抑える方法が選ばれました。術後は一定期間の療養を経て、同年4月下旬には職場復帰を果たしています。
復帰後は、アナウンサーとしての業務に加え、アナウンス部次長として管理職も兼任しながら、体調を見ながら仕事に取り組んでいました。現場での実況や番組制作に携わる一方で、後輩の育成や組織運営にも力を注いでいた様子が伝えられています。
復帰のタイミングでは、まだ病名を公表していませんでしたが、同年8月に自身のインスタグラムを通じてすい臓がんであることを明かしました。その後もSNSを通じて、闘病の様子や仕事への思いを発信し続け、視聴者や関係者から多くの応援の声が寄せられていました。
復帰後の姿勢には、病と向き合いながらも仕事を続ける強い意志が感じられます。実況の現場に立つだけでなく、組織の中での役割も果たし続けたことは、多くの人に勇気を与えるものでした。
2022年8月に病名と経過を公表
2022年8月、菅谷大介アナウンサーは自身がすい臓がんであることを公表しました。発表はインスタグラムを通じて行われ、診断から手術、復帰までの経緯を丁寧に説明しています。病名を明かすことにした背景には、同じ病と向き合う人たちへの励ましや、職場や視聴者への理解を求める思いが込められていました。
公表のタイミングは、手術を終えて職場復帰を果たした後であり、すでに業務に復帰していたことも伝えられています。投稿では、2021年11月に人間ドックで異常が見つかり、2022年1月にすい臓がんと診断されたこと、抗がん剤治療を経て4月に腹腔鏡手術を受けたことなどが記されています。
また、病気と向き合いながらも日々の仕事に取り組む姿勢や、アナウンサーとしての使命感についても触れられていました。インスタグラムでは、実況席での写真や日常の様子を交えながら、前向きな気持ちを発信し続けていました。
この公表は、視聴者や関係者にとって大きな驚きであると同時に、病と闘いながらも仕事を続ける姿に多くの共感と励ましの声が寄せられるきっかけとなりました。病名を隠さず、率直に伝える姿勢は、アナウンサーとしての誠実さと人柄を感じさせるものでした。
インスタグラムで闘病と仕事を発信
菅谷大介アナウンサーは、すい臓がんの闘病中もインスタグラムを通じて日々の様子を発信していました。投稿には、実況現場での写真や仕事の合間に見た風景、共演者とのエピソードなどが綴られており、病気と向き合いながらも前向きに過ごす姿が印象的でした。
2022年8月に病名を公表した際には、発見から手術、復帰までの経緯を丁寧に説明し、同じ病と闘う人たちへの思いや、周囲への感謝の気持ちを言葉にしていました。その後も定期的に更新を続け、実況席からの風景や出張先での写真など、アナウンサーとしての活動を伝えていました。
2023年以降は更新の間隔が空くこともありましたが、久々の投稿ではゴルフ中継の現場で見た虹の写真を添え、「一つ一つ頑張ります」と綴っていました。その言葉には、病と向き合いながらも仕事に情熱を注ぎ続ける姿勢がにじんでいました。
最後の投稿は2025年10月26日で、カーリング大会の実況を担当している様子が紹介されていました。北京五輪銀メダリストとの再会を喜びながら、実況への意気込みを語っており、「#すい臓がん」「#がんサバイバー」といったハッシュタグも添えられていました。
コメント欄には、共演者や視聴者からの温かい言葉が並び、菅谷アナウンサーの人柄と仕事ぶりに対する感謝の気持ちがあふれていました。闘病中でありながらも、仕事を通じて多くの人に前向きなメッセージを届け続けた姿は、多くの人の記憶に残っています。
管理職としてアナウンス部次長を兼任

菅谷大介アナウンサーは、すい臓がんの手術を経て職場復帰した後、日本テレビのアナウンス部次長として管理職も兼任していました。現場での実況や番組出演に加え、組織運営にも深く関わる立場となり、アナウンサーのマネジメントや育成にも力を注いでいました。
アナウンス部次長としての役割は、番組の編成や人材配置、後輩アナウンサーの指導など多岐にわたります。自身も実況の第一線に立ちながら、若手の育成にも積極的に関わっていたことが知られています。病と向き合う中でも、責任ある立場を全うしようとする姿勢は、社内外から高く評価されていました。
闘病中でありながらも、仕事に対する情熱は衰えることなく、実況現場では的確なコメントと落ち着いた語り口で視聴者に安心感を与えていました。管理職としての業務も並行して行っていたため、体調の管理には細心の注意を払いながら日々の業務に取り組んでいたとされています。
最期の勤務日まで職務を続けていたことからも、現場と組織の両方を支える存在として、周囲からの信頼が厚かったことがうかがえます。アナウンサーとしての技術だけでなく、人材育成や組織運営においても重要な役割を果たしていた人物でした。
ゴルフ実況で現場復帰した2025年秋
2025年11月2日、菅谷大介アナウンサーは男子ゴルフ大会「フォーティネットプレーヤーズカップ」の最終日実況を担当し、現場復帰を果たしました。この実況が、アナウンサーとしての最後の仕事となりました。すい臓がんの闘病中でありながらも、実況席に立ち続ける姿勢は、視聴者や関係者に深い印象を残しました。
実況では、これまでと変わらない落ち着いた語り口と、競技の流れを的確に伝えるテンポが健在で、スポーツ中継に定評のある菅谷アナらしい仕事ぶりが光っていました。体調を見ながらの参加ではありましたが、声の張りや表現力に衰えはなく、現場の空気を丁寧に伝える実況が好評を得ていました。
この大会の実況を終えた後も、アナウンス部次長としての職務を続けており、11月7日まで通常勤務をこなしていました。実況現場への復帰は、病と向き合いながらも仕事への情熱を貫いた象徴的な出来事であり、菅谷アナのプロ意識と責任感が強く感じられる場面でした。
スポーツ実況は菅谷アナのキャリアの中でも重要な柱であり、箱根駅伝やプロレス、ゴルフなど多くの競技で活躍してきました。2025年秋のゴルフ実況は、長年の経験と技術が集約された仕事であり、最期まで現場に立ち続けた姿勢は、多くの人の記憶に残るものとなりました。
最後の実況はカーリング大会の中継
菅谷大介アナウンサーが最後に実況を担当したのは、2025年10月下旬に開催されたパンコンチネンタルカーリング選手権でした。大会期間中には男子3位決定戦「日本対中国」の中継を担当し、実況席から冷静かつ的確な解説を届けていました。解説には北京オリンピック銀メダリストの石崎琴美さんが参加しており、平昌大会以来7年ぶりの再共演となりました。
実況中は、競技の流れを丁寧に伝えながら、選手の動きや戦術の意図をわかりやすく解説していました。病と向き合いながらの出演でありながらも、声の張りや語り口に変化はなく、視聴者に安心感を与える放送となっていました。実況席での写真もインスタグラムに投稿されており、笑顔で解説者と並ぶ姿が印象的でした。
このカーリング中継は、菅谷アナウンサーにとってアナウンサーとしての最後の出演となりました。その後も通常勤務を続けていましたが、11月7日の夜に体調を崩し、翌8日に急逝しています。最期まで現場に立ち続けた姿勢は、アナウンサーとしての誇りと責任感を強く感じさせるものでした。
実況の内容だけでなく、投稿に添えられた「#すい臓がん」「#がんサバイバー」というハッシュタグからは、病と向き合いながらも前向きに仕事に取り組む姿勢が伝わってきます。カーリングという静かな競技の中で、菅谷アナの落ち着いた語り口と確かな技術が際立っていた中継でした。
仕事への情熱を語ったリレーエッセイ
菅谷大介アナウンサーは、2025年7月6日に日本テレビの社内リレーエッセイを担当しました。その文章には、アナウンサーとしての歩みと、仕事への思いが率直に綴られていました。入社から29年目を迎え、翌年には節目となる30年目を迎えるにあたり、これまでの経験を振り返る内容となっていました。
エッセイでは、新人時代に担当したバラエティ番組「スーパーJOCKEY」を原点として挙げており、当時の出演写真も添えられていました。初めてレギュラー番組を任された時の緊張感や、現場での学びが今の自分につながっているという思いが込められていました。
また、病と向き合いながらも仕事を続ける中で、ひとつひとつの仕事を大切にしたいという気持ちが強くなったことも語られていました。「アナウンサー30年まであと少し。その時には、どんな仕事をしているのか、ひとつひとつの仕事を大事にしながら、その時を迎えたいと思います」と締めくくられた言葉には、未来への希望と責任感がにじんでいました。
文章全体からは、仲間や家族への感謝の気持ちも感じられ、支えられながら歩んできた道のりへの誇りが伝わってきます。闘病中でありながらも、仕事への情熱を失わず、前向きに日々を過ごしていたことがよくわかる内容でした。
このリレーエッセイは、菅谷アナウンサーの人柄と仕事への姿勢を象徴するものであり、読んだ人の心に静かに響くメッセージとなっています。
菅谷大介アナウンサー死去 何があった?すい臓がんとの関連
11月7日夜に体調不良で救急搬送

2025年11月7日の夜、菅谷大介アナウンサーは勤務を終えて帰宅した後、体調の異変を訴えました。その時点では意識があり、自らの不調を周囲に伝えることができていたとされています。すぐに都内の病院へ救急搬送され、医療機関での処置が始まりました。
搬送先の病院では、容体の安定を図るための対応が行われましたが、時間の経過とともに急速に悪化していきました。翌8日午後1時6分、容体が急変し、帰らぬ人となりました。死因は「消化管からの出血」と発表されており、すい臓がんとの関連が示唆されています。
この日も通常通り勤務をこなしていたことから、周囲にとってはまさに突然の出来事でした。病と向き合いながらも、日々の業務に真摯に取り組んでいた姿勢が印象に残る中での急変は、社内外に大きな衝撃を与えました。
救急搬送の直前まで、アナウンサーとしての職務を果たし、管理職としても組織を支えていた菅谷アナウンサー。その責任感と誠実さは、最期の瞬間まで変わることなく貫かれていたことがうかがえます。
翌8日午後に容体急変し死去
2025年11月8日午後、菅谷大介アナウンサーは容体が急変し、都内の病院で亡くなりました。前日の夜に体調不良を訴えて救急搬送されてから一夜明けた午後1時6分、医療機関での処置が続けられる中で急激な変化が起こり、帰らぬ人となりました。
死因は「消化管からの出血」と発表されています。すい臓がんとの直接的な因果関係は明言されていませんが、長期にわたる闘病の中での急変であったことから、がんの進行や治療の影響が関係していた可能性も考えられています。消化管からの出血は、がんの合併症として起こることがあり、突然の症状として現れるケースもあります。
亡くなる前日まで通常勤務をこなしていたことから、周囲にとってはまさに予期せぬ出来事でした。アナウンス部次長としての管理職業務に加え、実況や番組制作にも関わっていた菅谷アナウンサーは、最期まで現場に立ち続けていました。
突然の訃報は社内外に大きな衝撃を与え、同僚や視聴者からは驚きと悲しみの声が広がりました。病と向き合いながらも、仕事に情熱を注ぎ続けた姿勢は、多くの人の記憶に深く刻まれています。
死因は消化管からの出血と発表
2025年11月8日午後、菅谷大介アナウンサーは都内の病院で亡くなりました。死因は「消化管からの出血」と発表されています。前日の夜に体調不良を訴えて救急搬送され、医療機関での処置が続けられていましたが、急激な容体の変化により命を落とす結果となりました。
消化管からの出血は、胃や腸などの消化器官の粘膜が損傷を受けた際に起こる症状で、がんの進行や治療の影響によって引き起こされることがあります。特にすい臓がんは周囲の臓器や血管に浸潤しやすく、合併症として消化管出血を伴うケースも少なくありません。出血が突然起こる場合、短時間で容体が急変することもあり、予測が難しい症状のひとつです。
菅谷アナウンサーは、2022年にすい臓がんを公表して以降も、アナウンサーとしての業務や管理職としての役割を果たし続けていました。亡くなる直前まで通常勤務をこなしていたことからも、体調を見ながら仕事に向き合っていた様子がうかがえます。
突然の訃報は、社内外に大きな衝撃を与えました。病と向き合いながらも、仕事への情熱を失わず、最期まで現場に立ち続けた姿勢は、多くの人に深い感動を残しています。消化管出血という予測困難な症状が、闘病の中で起きたことは、がんの厳しさを改めて感じさせる出来事でもありました。
53歳という若さでの急逝
菅谷大介アナウンサーが53歳で亡くなったという知らせは、関係者や視聴者に大きな衝撃を与えました。長年にわたり日本テレビのアナウンサーとして活躍し、報道番組からスポーツ中継、バラエティ番組まで幅広いジャンルで存在感を示してきた人物でした。
1997年に入社して以来、初のレギュラー番組「スーパーJOCKEY」を皮切りに、数々の番組で視聴者に親しまれてきました。特にスポーツ実況では、箱根駅伝やプロレス、ゴルフ、カーリングなど多彩な競技を担当し、落ち着いた語り口と的確な解説で信頼を集めていました。
2022年にすい臓がんを公表して以降も、アナウンサーとしての仕事を続け、管理職としてもアナウンス部を支えていました。病と向き合いながらも、実況現場に立ち続ける姿勢は、多くの人に勇気を与えていました。
亡くなる直前まで通常勤務をこなしていたこともあり、突然の訃報に接した関係者や視聴者からは、驚きとともに深い悲しみの声が広がりました。SNSや報道を通じて寄せられた追悼の言葉には、彼の人柄や仕事ぶりに対する敬意と感謝が込められていました。
53歳という年齢は、アナウンサーとしても円熟期に差し掛かる時期であり、これからの活躍を期待されていた中での急逝でした。その早すぎる別れは、多くの人にとって大きな喪失感を残す出来事となりました。
最期の勤務日まで現場に立っていた

菅谷大介アナウンサーは、亡くなる前日の2025年11月7日まで通常勤務を続けていました。この日も日本テレビ本社で業務にあたり、同僚に軽く会釈をして帰路についたとされています。体調に不安を抱えながらも、いつも通りの姿勢で仕事を終えたその数時間後、自宅で体調の異変を訴え、救急搬送されました。
最期の実況は11月2日の男子ゴルフ大会「フォーティネットプレーヤーズカップ」で、メイン実況を担当しています。その後もアナウンス部次長としての管理職業務をこなし、番組制作や人材育成にも関わっていました。病と向き合いながらも、現場に立ち続ける姿勢は、アナウンサーとしての誇りと責任感を強く感じさせるものでした。
勤務最終日まで現場に立ち続けたことは、周囲にとっても深い感銘を与える出来事でした。闘病中であることを公表していたにもかかわらず、実況や番組制作に携わる姿勢は一貫しており、視聴者にも安心感を与える存在でした。
日々の業務に真摯に向き合い、最期まで声を届け続けた菅谷アナウンサーの姿は、多くの人の記憶に残るものとなりました。体調が万全ではない中でも、仕事への情熱と使命感を貫いたその姿勢は、放送業界においても大きな尊敬を集めています。
葬儀は近親者のみで執り行われる予定
菅谷大介アナウンサーの訃報が伝えられた後、葬儀については近親者のみで執り行われる予定であることが発表されました。静かに見送りたいという家族の意向が尊重されており、式の詳細や日程については公表されていません。
長年にわたりテレビの第一線で活躍してきた菅谷アナウンサーの死去は、多くの視聴者や関係者にとって大きな衝撃でしたが、家族は静かに故人を偲ぶ時間を大切にしたいと考えているようです。公の場での告別式やお別れの会などの予定も現時点では発表されておらず、報道各社もその意向を尊重する形で対応しています。
こうした対応は、故人の生前の姿勢や家族の思いを反映したものであり、静かに見送るという選択に対して、多くの人が理解を示しています。SNSなどでは、菅谷アナウンサーの仕事ぶりや人柄を偲ぶ声が広がっており、それぞれの場所で思いを寄せる形となっています。
葬儀の詳細が非公開であることは、プライバシーを守るための配慮でもあり、報道関係者や視聴者にとっては、静かに哀悼の意を表すことが求められる状況です。菅谷アナウンサーの功績と人柄は、これからも多くの人の記憶に残り続けることでしょう。
日テレが発表した追悼コメント全文
菅谷大介アナウンサーの訃報を受け、日本テレビは公式に追悼コメントを発表しました。コメントでは、2022年にすい臓がんを公表して以降も、アナウンサーとして、また管理職として前向きに業務に取り組んでいた姿勢に深い敬意が示されています。突然の別れに対する驚きと悲しみが社内に広がっていることも伝えられました。
菅谷アナウンサーは1997年に入社し、バラエティ番組「スーパーJOCKEY」で初のレギュラーを担当。その後は報道番組やスポーツ中継など幅広いジャンルで活躍し、穏やかで誠実な語り口が多くの視聴者に親しまれてきました。社内ではアナウンス部次長として後輩の育成にも力を注ぎ、組織の中核を担う存在でした。
追悼コメントでは、故人の功績に深く感謝するとともに、ご遺族へのお悔やみの言葉が添えられています。病と向き合いながらも、最後まで仕事に情熱を注ぎ続けた姿勢は、社員一同にとって大きな励みであり、尊敬の対象でもありました。
このコメントは、菅谷アナウンサーの人柄と仕事への誠実な姿勢を象徴するものであり、社内外から寄せられた哀悼の声とともに、彼の存在の大きさを改めて感じさせるものとなっています。
社内外から寄せられた哀悼の声
菅谷大介アナウンサーの急逝を受けて、社内外から多くの哀悼の声が寄せられています。同僚や後輩、視聴者、さらにはスポーツ関係者や報道関係者まで、幅広い層からその死を惜しむ言葉が広がっています。
社内では、アナウンス部次長として後輩の育成に尽力していた姿が語られ、穏やかで誠実な人柄に対する感謝の声が相次ぎました。日々の業務の中で見せていた気配りや、実況現場での冷静な対応は、周囲にとって大きな支えとなっていたようです。
SNSでは、視聴者から「落ち着いた語り口に安心していた」「スポーツ中継での実況が印象的だった」といった声が多く見られました。特に、平昌五輪女子パシュートの実況や箱根駅伝での解説は、記憶に残る名場面として語られています。
後輩アナウンサーからは、「厳しさの中に優しさがあった」「背中で教えてくれる人だった」といった言葉が寄せられ、指導者としての姿勢にも深い敬意が示されています。病と向き合いながらも、最期まで現場に立ち続けた姿勢は、放送業界においても特別な存在感を放っていました。
報道関係者からは、「現場の空気を伝える力に長けていた」「言葉の選び方が丁寧だった」といった評価があり、アナウンサーとしての技術と人間性の両面で高く評価されていたことがうかがえます。
視聴者や関係者がそれぞれの場所で思いを寄せる中、菅谷アナウンサーの存在がいかに多くの人に影響を与えていたかが改めて浮き彫りになっています。その声の温もりと誠実さは、これからも多くの人の記憶に残り続けるでしょう。
菅谷大介アナウンサー死去 すい臓がんと何があったかを振り返る
- 2022年1月の人間ドックで異常が見つかった
- すい臓がんと診断されすぐに治療を開始した
- 腹腔鏡手術を受けて4月に職場復帰した
- 2022年8月に病名と経過をSNSで公表した
- インスタグラムで闘病と仕事の様子を発信した
- アナウンス部次長として管理職も兼任していた
- 2025年秋にゴルフ実況で現場復帰を果たした
- 最後の実況はカーリング大会の中継だった
- 社内リレーエッセイで仕事への情熱を語った
- 11月7日夜に体調不良で救急搬送された
- 翌8日午後に容体急変し病院で亡くなった
- 死因は消化管からの出血と発表された
- 享年53歳の急逝に衝撃と悲しみが広がった
- 最期の勤務日まで現場に立ち続けていた
- 葬儀は近親者のみで静かに執り行われる予定
- 日本テレビが公式に追悼コメントを発表した
- 社内外から温かい哀悼の声が多数寄せられた
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