坂本龍一は世界的な音楽家として知られる一方、私生活でも多くの人々に関心を持たれてきました。矢野顕子との結婚や娘美雨の誕生、そして長年連れ添った空里香との事実婚など、家族との関わりは彼の人生を語る上で欠かせない要素です。
音楽活動の裏側には、支え続けた奥さんたちの存在がありました。彼の人生を振り返ることで、作品に込められた背景がより鮮明に見えてきます。
【この記事のポイント】
- 東京芸大時代の初婚と最初の子供の存在
- 矢野顕子との結婚と娘美雨の誕生
- 空里香との事実婚と息子空音央の活動
- 闘病を支えた奥さんの献身と晩年の姿
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坂本龍一と奥さん矢野顕子|結婚から離婚までの20年
東京芸大時代の初婚と一般女性との子供

坂本龍一は東京芸術大学に在学していた20代前半の頃、2歳年上の一般女性と結婚しました。学生結婚という形で始まったこの生活は、音楽活動を本格化させる前の若い時期の出来事でした。二人の間には長女が誕生し、坂本にとって初めての父親としての経験となりました。
しかし、この結婚生活は長く続きませんでした。芸術大学での学びや音楽活動への情熱が強まる中で、家庭との両立は難しく、やがて離婚という選択に至りました。短い結婚生活ではありましたが、家族を持った経験はその後の人生に影響を与え、後の人間関係や家族観にもつながっていきました。
この初婚で生まれた長女は「あきこ」とされており、坂本の子供たちの中で最初に誕生した存在です。後に矢野顕子との間に生まれた坂本美雨や、事実婚のパートナー空里香との間に生まれた空音央と並び、坂本の家族構成の一部を形作っています。
若くして結婚と離婚を経験したことは、坂本龍一の人生において大きな転機となりました。音楽家としての道を突き進む中で、家庭の在り方や人との関わり方を考えるきっかけにもなった出来事でした。
矢野顕子との馴れ初めと音楽的共演
坂本龍一と矢野顕子の出会いは1970年代後半の音楽活動の場でした。1979年から1980年にかけて行われたYMOのワールドツアーに矢野顕子がサポートメンバーとして参加したことがきっかけで、二人は急速に親しくなりました。当時、矢野顕子は前夫との離婚を終えたばかりで、幼い子供を育てていました。一方の坂本龍一も学生時代の結婚生活を整理しきれていない状況でしたが、互いに強い惹かれ合いを感じて関係を深めていきました。
1980年には娘の坂本美雨が誕生し、二人は家庭と音楽を同時に育む生活を始めました。形式的な入籍は1982年に行われましたが、それ以前から事実婚のような形で生活を共にしていました。坂本は「挙式や入籍といった形式は必要ない」と語り、矢野顕子と共に自然体の家族を築こうとしました。
音楽面でも二人は強い結びつきを持ちました。矢野顕子は独自のピアノ演奏と歌声で知られ、坂本龍一の作曲や編曲と融合することで、ライブや作品に新しい色彩を加えました。互いの才能を尊重し合い、共演することでさらに創作意欲を高める関係でした。特に1980年代から1990年代にかけては、ニューヨークを拠点に活動する中で、国際的な舞台でも二人の存在感を示しました。
夫婦としての生活はやがてすれ違いを抱えるようになりましたが、結婚当初の二人は音楽と家庭を重ね合わせることで、坂本龍一の人生に大きな影響を与えました。矢野顕子との結婚は、彼の音楽活動においても重要な転機となり、作品の幅を広げるきっかけとなったのです。
娘・坂本美雨の誕生と音楽活動
坂本美雨は1980年5月に東京都で生まれました。父は坂本龍一、母は矢野顕子という音楽一家に育ち、幼少期から自然に音楽に囲まれた環境で成長しました。胎教の段階からYMOやクラフトワークの音楽を聴いていたとされ、幼い頃から音楽的な感性を育んでいました。
9歳の時に家族でニューヨークへ移住し、現地の学校で学びながら英語と日本語の両方を身につけました。高校時代には美術を専攻しており、芸術的な表現に幅広く関心を持つようになりました。父が名付けた「美雨」という名前は、英語の「mutant(突然変異)」に由来しており、独自性を大切にする思いが込められています。
音楽活動は16歳の1997年にスタートしました。「Ryuichi Sakamoto feat. Sister M」という名義でデビューし、その後は本名で活動を続けています。ポップスを中心に歌手としてのキャリアを築き、国内外でライブを行いながら作品を発表してきました。北京や上海、韓国など海外での公演経験もあり、国際的な活動を展開しています。
2000年代以降はソロ活動に加え、シンガーソングライターのおおはた雄一とのユニット「おお雨」としても活動し、フェスやライブで多くの観客を魅了しました。さらにラジオパーソナリティとしても活躍し、2011年からはTOKYO FMの「ディアフレンズ」を担当しています。村上春樹のラジオ番組「村上RADIO」にも出演し、幅広い表現活動を続けています。
音楽以外の分野でも活動を広げ、執筆や演劇、ナレーションなど多彩な表現を行っています。動物愛護活動をライフワークとし、愛猫との暮らしを綴った著書「ネコの吸い方」が話題となりました。2015年には自身も母となり、子育てと音楽活動を両立させています。近年はNHK Eテレ「日曜美術館」の司会を務めるなど、文化的な活動にも積極的です。
坂本美雨は両親から受け継いだ音楽的な才能を基盤にしながらも、自らの個性を活かして幅広い活動を展開しており、父母の影響を超えて独自のキャリアを築いてきました。
夫婦関係のすれ違いと別居の経緯

坂本龍一と矢野顕子の結婚生活は、音楽活動の多忙さと価値観の違いによって次第に距離が生まれていきました。二人はともに世界的に活動する音楽家であり、国内外を行き来する生活が続いたため、家庭で過ごす時間は限られていました。ニューヨークを拠点にした時期もありましたが、活動の方向性や生活スタイルの違いが積み重なり、夫婦としての時間を共有することが難しくなっていきました。
1990年代に入ると、坂本龍一の女性関係が問題となり、夫婦間の信頼は揺らぎました。特にマネージャーとの関係が表面化したことで、矢野顕子との間に深い溝が生まれました。矢野顕子は何度も話し合いを試みましたが、すれ違いは解消されず、別居生活が続くようになりました。
2001年には離婚調停が始まり、長い時間をかけて関係の整理が進められました。最終的に2006年に正式な離婚が成立し、約20年以上続いた夫婦生活に終止符が打たれました。離婚までに5年もの時間を要したのは、互いに音楽家としての活動を尊重しつつも、家族としての関係をどう整理するかに悩んだ結果でした。
別居期間中も二人は音楽家としての敬意を失うことはなく、矢野顕子は独自の活動を続け、坂本龍一も国際的な舞台で活躍を続けました。夫婦としては別々の道を歩むことになりましたが、音楽を通じて築いた影響はその後も互いの人生に残り続けました。
2006年の離婚成立とその背景
坂本龍一と矢野顕子の結婚生活は、20年以上にわたって続きましたが、2006年に正式に離婚が成立しました。長い年月を経ての決断であり、互いの人生を尊重する形で区切りを迎えることになりました。
離婚に至るまでには長い別居期間がありました。坂本龍一はニューヨークを拠点に国際的な活動を続け、矢野顕子も独自の音楽活動を展開していました。二人とも世界を舞台に活躍していたため、生活のリズムや価値観の違いが大きくなり、夫婦としての時間を共有することが難しくなっていったのです。
さらに、坂本龍一の女性関係が夫婦関係に影響を与えました。マネージャーとの関係が公になったことで、夫婦間の信頼は大きく揺らぎました。矢野顕子は何度も話し合いを試みましたが、すれ違いは解消されず、別居生活が続いたまま年月が過ぎていきました。
2001年には離婚調停が始まりましたが、結論が出るまでには5年もの時間を要しました。互いに音楽家としての活動を尊重しつつも、家族としての関係をどう整理するかに悩んだ結果でした。最終的に2006年に離婚が成立し、長い夫婦生活に終止符が打たれました。
離婚後も二人は音楽家としての敬意を失うことはなく、それぞれが独自の活動を続けました。夫婦としては別々の道を歩むことになりましたが、音楽を通じて築いた影響はその後も互いの人生に残り続けています。
離婚後の矢野顕子の活動と現在
矢野顕子は2006年に坂本龍一との離婚が成立した後も、音楽活動を精力的に続けています。ニューヨークを拠点にしながら、日本と世界を行き来し、多彩な表現を追求してきました。彼女の音楽はジャンルにとらわれず、ジャズ、ポップス、クラシック、さらには映画音楽やカバー曲まで幅広く取り入れ、独自のスタイルを築いています。
毎年恒例となっている「さとがえるコンサート」は、1996年から続く長寿企画で、離婚後も彼女の活動の中心にあります。日本各地で開催されるこのコンサートは、ファンにとって年末の風物詩となり、矢野顕子が新しいアレンジや挑戦を披露する場となっています。2025年には30回目を迎え、節目の年として全国ツアーが行われました。
近年は海外での活動も活発で、ニューヨークのライブハウス「Joe’s Pub」での公演や、世界的なミュージシャンとの共演を重ねています。ウィル・リーやクリス・パーカーと組んだトリオ編成でのライブは高い評価を得ており、代表曲「ごはんができたよ」や「ひとつだけ」に加え、YMOの楽曲や映画音楽のカバーも披露しています。
また、上原ひろみとのコラボレーションも注目されており、2024年にはライブアルバム第3弾「Step Into Paradise -LIVE IN TOKYO-」を発表しました。世代やジャンルを超えた共演は、彼女の音楽の幅をさらに広げています。
さらに、宇宙飛行士の野口聡一との共同制作によるアルバム「君に会いたいんだ、とても」など、ユニークな企画にも積極的に取り組んでいます。音楽を通じて新しい挑戦を続ける姿勢は、離婚後も変わることなく、むしろ自由度を増しているように見えます。
現在も矢野顕子は、国内外でのライブ活動、アルバム制作、コラボレーションを続け、独自の存在感を放ち続けています。坂本龍一との関係は過去のものとなりましたが、音楽的な影響は彼女の作品の中に息づいており、今も多くの人々に受け継がれています。
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坂本龍一と奥さん空里香|事実婚と闘病支えた35年
出会いは1987年のコンサート美術スタッフ

空里香は多摩美術大学で美術を学び、舞台美術やアートディレクションの分野で活動していました。1987年、坂本龍一のコンサートツアーにおいて舞台美術を担当することになり、これが二人の出会いのきっかけとなりました。音楽と美術という異なる分野でありながら、創作に対する姿勢や感性が共鳴し、次第に親密な関係へと発展していきました。
その後、空里香は坂本龍一のマネージャー兼秘書として活動を支えるようになり、公私にわたるパートナーとなりました。1990年には二人の間に息子・空音央が誕生し、家族としての生活が始まりました。空音央は後に映画監督として活動し、父の影響を受けながら独自の表現を追求しています。
当時、坂本龍一はまだ矢野顕子と婚姻関係にありましたが、空里香との関係は続き、やがて事実婚という形で長期にわたる生活を共にしました。形式的な入籍は行われませんでしたが、二人はニューヨークを拠点に暮らし、音楽活動と生活の両面で支え合う関係を築いていきました。
坂本龍一が闘病生活に入ってからも、空里香は献身的に支え続けました。病院への付き添いや生活のサポートを行い、最後まで寄り添った存在でした。坂本龍一が亡くなるまでの35年以上にわたる関係は、単なる伴侶以上に、人生と音楽を共に歩んだ深い絆として語り継がれています。
マネージャー兼秘書として支えた日々
空里香は坂本龍一の音楽活動を長年にわたり支え続けた存在でした。舞台美術を手掛けるアーティストとして出会った後、彼の個人事務所でマネージャー兼秘書を務めるようになり、仕事の現場から日常生活まで幅広くサポートしました。スケジュール管理や制作現場の調整だけでなく、海外公演やレコーディングの際にも常に同行し、坂本の活動を円滑に進めるために欠かせない役割を担っていました。
坂本龍一は1980年代後半からニューヨークを拠点に活動することが増えましたが、その生活環境の整備や人間関係の調整も空里香が支えました。音楽家としての創作活動に集中できるよう、周囲の雑務を引き受け、精神的にも安定をもたらす存在となっていました。彼女は単なるスタッフではなく、信頼できるパートナーとして坂本の人生に深く関わっていたのです。
1990年には二人の間に息子・空音央が誕生しました。家庭を築きながらも、空里香は坂本の活動を支える役割を続け、公私にわたる関係を維持しました。彼女の存在は、坂本が国際的な舞台で活躍する上で大きな支えとなり、音楽活動の裏側を支える重要な役割を果たしました。
その後も坂本が病に倒れた際には、闘病生活を支える存在として寄り添い続けました。仕事面だけでなく生活面でも支え続けたことで、坂本龍一の晩年においても彼女の存在は欠かせないものとなりました。長年にわたり築かれた信頼関係は、事実婚という形で続き、最後まで坂本の人生を共に歩んだのです。
息子・空音央の誕生と映画監督としての活動
1991年、坂本龍一と空里香の間に息子・空音央が誕生しました。ニューヨークで生まれ育った彼は、幼少期から国際的な環境に身を置き、東京とアメリカを行き来しながら成長しました。父が世界的な音楽家であることから、芸術に触れる機会は自然と多く、音楽や映像に対する感性を育んでいきました。
大学はアメリカ・コネチカット州のウェズリアン大学に進学し、映画と哲学を専攻しました。卒業後はフリーランスの映像作家として活動を開始し、アーティストや翻訳家としても幅広く活動を展開しました。2015年には北海道平取町でアイヌ民族を題材にしたドキュメンタリー「アイヌネノアンアイヌ」を共同監督し、社会的テーマを扱う作品で注目を集めました。
その後、アーティストグループ「Zakkubalan」の一員としてビデオアートやインスタレーション作品を制作し、美術館や国際芸術祭で発表しました。2017年にはワタリウム美術館や宮城県石巻市のReborn-Art Festivalに参加し、映像とアートを融合させた作品を披露しました。
2020年には志賀直哉の短編小説を原作とした映画「The Chicken」を監督し、スイスのロカルノ国際映画祭で上映されました。この作品は国際的に評価され、彼は「注目すべき新進インディペンデント作家25人」に選ばれるなど、若手映画監督としての地位を確立しました。
2023年には父・坂本龍一の最後のコンサートを記録した映画「Ryuichi Sakamoto | Opus」を完成させました。坂本の死の半年前に撮影されたこの作品は、ニューヨーク映画祭など世界各地で上映され、父の音楽と人生を映像に刻む重要な作品となりました。
2024年には長編映画「HAPPYEND」で劇映画監督としてデビューしました。近未来の日本を舞台に高校生たちの生活を描いたこの作品は、自身の生い立ちや社会への問題意識を反映した自伝的要素を持ち、ベネチア国際映画祭のオリゾンティ部門に選出されました。その後もトロントやニューヨークなど主要な国際映画祭で上映され、高い評価を得ています。
空音央は父の影響を受けながらも、独自の視点で社会や文化を描く映像作家として成長しました。音楽一家に生まれた背景を活かしつつ、映像という別の表現手段で世界に発信し続けています。
矢野顕子との婚姻中に始まった関係
坂本龍一が矢野顕子と婚姻関係にあった1980年代後半から1990年代にかけて、空里香との関係が始まりました。二人の出会いは1987年のコンサートで、舞台美術スタッフとして参加していた空里香が坂本の活動を支えたことがきっかけでした。芸術的な感性を共有する中で親密さが増し、やがて生活を共にするようになりました。
この関係は当初、複雑な背景を伴っていました。坂本は矢野顕子との婚姻を継続していたため、家庭と新しい関係の間で葛藤を抱える時期が続きました。しかし、空里香は仕事面でも生活面でも坂本を支え、ニューヨークを拠点とした活動や海外公演にも同行し、次第に欠かせない存在となっていきました。
1991年には二人の間に息子・空音央が誕生しました。家庭を築きながらも、坂本は矢野顕子との婚姻を続けていたため、状況はさらに複雑さを増しました。それでも空里香は坂本の音楽活動を支え続け、事実婚という形で長期にわたる関係を維持しました。
2006年に坂本と矢野顕子の離婚が成立した後は、空里香との関係がより明確になり、二人は公私ともにパートナーとして歩み続けました。形式的な入籍は行われませんでしたが、35年以上にわたり坂本の人生を支えた存在として、空里香は最後まで寄り添いました。
闘病生活を支えた献身的なサポート

坂本龍一ががんを患い、闘病生活に入ってからの数年間、空里香は常にそばで支え続けました。彼は2014年に中咽頭がんを公表し、その後も治療を受けながら音楽活動を続けましたが、病状は再発を繰り返し、晩年には複数の手術を経験しました。その厳しい状況の中で、空里香は生活面から精神面まで幅広く支え、坂本が最後まで音楽に向き合える環境を整えていました。
闘病中も坂本は創作意欲を失わず、ピアノソロコンサートや映画音楽の制作を続けました。こうした活動を可能にした背景には、空里香の献身的なサポートがありました。彼女は日常のケアだけでなく、仕事の現場にも同行し、体調に合わせたスケジュール調整を行いながら、坂本が創作に集中できるよう支えました。
坂本は晩年、自らの死を意識しながら「がんと生きる」という言葉を使い、延命治療よりも自然に病と向き合う姿勢を選びました。その考えを支えたのも空里香であり、彼女は最後まで坂本の意思を尊重し、静かな生活を共にしました。ニューヨークや東京での暮らしの中で、彼女は家族や仲間とのつながりを大切にしながら、坂本の心を安定させる役割を果たしました。
坂本は亡くなる直前まで音楽を残そうとし、最後のコンサート映像「Ryuichi Sakamoto | Opus」も制作されました。その舞台裏にも空里香の支えがあり、彼女の存在は坂本の人生の最期を穏やかに彩るものとなりました。35年以上にわたる事実婚生活の中で、空里香は伴侶としてだけでなく、音楽家としての坂本を支える最重要な存在であり続けたのです。
入籍を検討した晩年のエピソード
坂本龍一と空里香は35年以上にわたり事実婚の関係を続けていました。晩年、坂本が闘病生活を送る中で、二人の間では入籍を検討する話も持ち上がりました。病状が進むにつれて、法的な整理や相続の問題を意識するようになり、形式的な婚姻を選択するかどうかが現実的な課題となったのです。
坂本は「自分が死んだ後にトラブルが起きないようにしたい」と考え、入籍を前向きに検討しました。しかし、長年にわたり形式にとらわれない関係を築いてきた二人にとって、婚姻届を出すことは必ずしも必要ではないという思いもありました。互いの信頼関係はすでに十分に深く、法律上の夫婦であるかどうかは二人にとって大きな意味を持たなかったのです。
最終的に入籍は行われず、事実婚のまま生涯を共にしました。形式よりも実質を重んじる二人の姿勢は、坂本の人生観とも重なります。彼は音楽や社会に対しても常に既存の枠にとらわれない姿勢を貫いてきましたが、私生活においても同じように「形式よりも本質」を選びました。
坂本が亡くなった後、空里香は最後まで寄り添ったパートナーとして語られています。入籍という形を取らなくても、二人の関係は深い絆で結ばれており、その在り方は多くの人に強い印象を残しました。
坂本龍一の死去と空里香の存在
2023年3月28日、坂本龍一は71歳で亡くなりました。長年にわたるがんとの闘病生活の末に静かに旅立ったその時、最後まで寄り添っていたのが事実婚のパートナーである空里香でした。彼女は坂本の音楽活動を支えるマネージャー兼秘書としてだけでなく、生活の面でも深く関わり続け、晩年の坂本にとって欠かせない存在でした。
坂本は闘病中も音楽制作を続け、最後のコンサート映像「Ryuichi Sakamoto | Opus」を残しました。その舞台裏には空里香の支えがあり、彼女は体調に合わせたスケジュール調整や生活のケアを行い、坂本が創作に集中できる環境を整えていました。病状が進む中でも坂本が音楽に向き合えたのは、空里香の献身的な支えがあったからです。
晩年には入籍を検討する話もありましたが、最終的に二人は事実婚のまま生涯を共にしました。形式にとらわれず、信頼と絆を重んじる関係性は、坂本の人生観とも重なります。彼は「形式よりも本質」を選び続けた人物であり、その姿勢は私生活にも反映されていました。
坂本の死後、空里香は「最後まで寄り添ったパートナー」として注目されました。彼女の存在は坂本の人生において単なる伴侶以上の意味を持ち、音楽家としての活動を支えるだけでなく、精神的な安定をもたらす存在でもありました。35年以上にわたる関係は、坂本の人生を彩る大きな要素であり、彼の作品や生き方にも深い影響を与え続けました。
坂本龍一と奥さんにまつわる人生のまとめ
- 東京芸大在学中に一般女性と結婚し最初の子供が誕生した
- 矢野顕子と1982年に結婚し音楽活動でも深く結びついた
- 娘の坂本美雨が誕生し音楽一家として家庭を築いた
- 夫婦関係のすれ違いが続き別居生活が長期化した
- 2006年に正式に離婚が成立し20年以上の結婚生活が終わった
- 離婚後も矢野顕子は独自の音楽活動を精力的に続けた
- 1987年のコンサートで美術スタッフの空里香と出会った
- 空里香はマネージャー兼秘書として坂本龍一を支え続けた
- 二人の間に息子空音央が誕生し映画監督として活動した
- 矢野顕子との婚姻中に空里香との関係が始まり複雑さを抱えた
- 闘病生活では空里香が献身的に支え精神的な安定をもたらした
- 晩年には入籍を検討したが事実婚のまま生涯を共にした
- 坂本龍一は形式より本質を重んじる姿勢を私生活でも貫いた
- 2023年に坂本龍一が亡くなり空里香は最後まで寄り添った
- 奥さんたちとの関係は音楽家としての人生に深い影響を与えた


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