音楽番組での出会いから始まった二人の歩みは、結婚、息子の誕生、そして離婚という節目を経て、今も多くの人の記憶に残っています。平山みきが夫との関係をどう受け止め、どんな人生を選んできたのか。その背景には、静かな強さと深い思いやりが込められています。
現在の平山みきの暮らしや活動、息子との絆、そして夫との距離感まで、知りたいことをひとつずつ丁寧にたどっていくことで、彼女の人柄や生き方がより鮮明に見えてきます。過去の出来事だけでなく、今をどう生きているのかに触れることで、心に残る何かがきっと見つかります。
【この記事のポイント】
- 平山みきと夫の出会いから結婚までの流れ
- 離婚に至るまでの背景と心情の変化
- 息子の現在の活動と家族との関係性
- 平山みきの現在の生活と芸能活動の様子
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平山みきと夫の結婚生活と離婚の真相
出会いは音楽番組での共演だった
平山みきとばんばひろふみが初めて顔を合わせたのは、1970年代の音楽番組での共演でした。当時、平山みきは「真夏の出来事」などのヒット曲で知られる人気歌手であり、ばんばひろふみもフォークグループ「バンバン」で活動していた時期でした。
ばんばひろふみは、もともと平山みきの熱心なファンだったことが知られています。テレビで彼女の歌声を聴いて以来、強い憧れを抱いていたとされ、共演の機会を得たことでその思いが一気に現実味を帯びました。ステージでの彼女の姿に心を奪われたばんばひろふみは、共演後すぐに積極的なアプローチを始めたといいます。
その後、二人は音楽という共通の情熱を通じて距離を縮め、自然な流れで交際へと発展しました。芸能界という特殊な環境の中でも、互いの活動を尊重し合いながら関係を築いていった様子がうかがえます。出会いから結婚に至るまでの過程には、音楽を通じた深い絆と、純粋な気持ちが込められていたようです。
1977年に結婚した芸能界のおしどり夫婦

平山みきとばんばひろふみは、1977年2月25日に結婚しました。共に音楽業界で活躍していた二人は、当時の芸能界でも注目の存在であり、「おしどり夫婦」として多くのメディアに取り上げられていました。
ばんばひろふみはフォークグループ「バンバン」のメンバーとして、「いちご白書をもう一度」などのヒット曲で知られ、親しみやすいキャラクターで人気を集めていました。一方、平山みきはハスキーな歌声と都会的な雰囲気で、1970年代の音楽シーンを彩る存在でした。そんな二人が結婚したことで、音楽ファンの間でも大きな話題となり、祝福の声が広がりました。
結婚後は、互いの音楽活動を支え合いながら家庭を築いていきました。1981年には息子が誕生し、家族としての生活も始まります。平山みきは育児と音楽活動を両立させ、家庭内でも外でも精力的に活動を続けていました。夫婦での共演も見られ、ステージ上でも仲睦まじい様子が印象的でした。
住まいは京都にあり、ばんばひろふみの実家である旅館「六三園」で両親と同居していた時期もあります。音楽に囲まれた華やかな日々の中にも、家庭的な一面があり、二人の結婚生活は理想的な夫婦像として語られることが多くありました。
このように、1977年に結婚した平山みきとばんばひろふみは、音楽と家庭を両立させながら、芸能界でも家庭でも「おしどり夫婦」として多くの人々に親しまれていた存在でした。
息子の誕生と家庭生活の様子
平山みきとばんばひろふみの間には、1981年5月に息子が誕生しました。名前は馬場紘之信さんで、後に母方の姓を名乗り「高賀紘之信」として知られるようになります。芸能界で活躍する両親のもとに生まれた彼は、幼少期から音楽に囲まれた環境で育ちました。
家庭生活は、当初は穏やかで安定していたと見られています。平山みきは歌手としての活動を続けながら、母親としての役割も大切にしていました。育児と仕事を両立させる日々の中で、息子との時間を丁寧に積み重ねていた様子がうかがえます。
住まいは京都で、ばんばひろふみの実家である旅館「六三園」での同居生活も経験しています。この環境は、家族としての絆を深める場でもありました。平山みきは旅館の手伝いもこなしながら、家庭内での役割を果たしていたとされます。
息子が成長するにつれ、両親の芸能活動の影響も受けながら、彼自身も表現の世界に興味を持つようになります。高校卒業後にはアメリカへ語学留学し、帰国後は俳優として活動を始めました。その後、プロボクサーへの転身という異色の経歴を歩み、現在は京都でボクシングトレーナーとして活躍しています。
両親の離婚は2005年に成立しましたが、それまでの家庭生活には多くの思い出と努力が詰まっていました。平山みきは離婚後も息子との生活を守り続け、母としての責任を果たしてきました。息子との絆は今も強く、互いに支え合う関係が続いていると見られています。
夫の不倫が離婚のきっかけに

平山みきとばんばひろふみの結婚生活は、長年にわたり「芸能界のおしどり夫婦」として知られていました。しかし、2005年に二人は離婚という選択をしました。その直接的なきっかけとなったのが、ばんばひろふみの不倫でした。
結婚から約28年が経過した頃、ばんばひろふみは平山みきに「他に好きな人がいる」と告げました。この言葉は、長年連れ添った夫婦にとって大きな衝撃となり、関係の修復は困難なものとなりました。すでに別居状態にあった二人は、その告白を機に正式な離婚へと進んでいきます。
離婚前、平山みきは夫の両親と同居していました。夫が家を出た後も、彼女は義理の両親との生活を続け、旅館の手伝いなどもこなしながら家庭を支えていました。その生活は約4年間に及び、精神的にも肉体的にも負担の大きい日々だったと考えられます。
義理の両親からは、ばんばひろふみを擁護するような言葉がかけられたこともあり、平山みきは深く傷ついたとされています。最終的にはその環境から離れる決断をし、離婚に応じる形となりました。
離婚後、ばんばひろふみは一般女性と再婚しています。一方、平山みきは再婚しておらず、現在も独身です。とはいえ、近年のインタビューでは再婚への前向きな気持ちも語っており、新たな人生への希望を持ち続けている様子がうかがえます。
この離婚劇は、単なる夫婦のすれ違いではなく、長年の信頼関係が崩れた末の選択でした。平山みきの誠実さと忍耐力は、多くの人々の共感を呼び、彼女の人柄を改めて印象づける出来事となりました。
離婚後も義両親と同居していた理由
平山みきは、夫・ばんばひろふみとの離婚後も、しばらくの間、彼の両親と同居を続けていました。その期間は約4年に及び、京都・八坂神社近くにある夫の実家旅館「六三園」での生活でした。離婚後も義理の両親と暮らすという選択は、芸能人としては異例とも言えるもので、彼女の人柄と責任感の強さが表れた行動といえます。
この同居には、息子の養育環境を守るという明確な目的がありました。息子がまだ若く、生活の安定が必要な時期だったため、平山みきは自らの感情よりも子どもの安心を優先しました。旅館の手伝いをしながら、家庭内での役割を果たし続けた彼女の姿には、母としての覚悟と誠意が感じられます。
しかし、同居生活は決して穏やかなものではありませんでした。義理の両親からは、夫を擁護するような言葉がかけられることもあり、精神的な負担は大きかったとされています。それでも平山みきは、すぐに家を出ることなく、家族としての責任を果たし続けました。
最終的には、心身の限界を感じたことで家を出る決断をし、離婚を正式に受け入れる形となりました。この選択は、彼女自身を守るためのものであり、同時に新たな人生への一歩でもありました。
このような背景から、平山みきが離婚後も義両親と同居を続けた理由は、単なる生活の都合ではなく、母としての深い愛情と責任感に基づいたものであることがわかります。
離婚を決断した背景と心情

平山みきが離婚を決断するまでには、長い時間をかけた葛藤がありました。夫・ばんばひろふみとの結婚生活は28年に及び、芸能界でも「おしどり夫婦」として知られていました。しかし、夫から「他に好きな人がいる」と告げられたことで、関係は大きく揺らぎます。
その時点で、すでに夫婦は別居状態にあり、日常の中でのすれ違いが積み重なっていたことがうかがえます。平山みきは、突然の告白に深く傷つきながらも、すぐに離婚を決断することはありませんでした。息子の生活や家族の安定を守るため、夫の実家である京都の旅館「六三園」で義両親と同居を続けるという選択をしました。
この同居生活は約4年間に及び、旅館の手伝いをしながら家庭を支える日々が続きました。義両親からは夫を擁護するような言葉がかけられることもあり、精神的な負担は大きかったとされています。それでも平山みきは、母として、家族の一員としての責任を果たし続けました。
最終的に、彼女は自分自身の尊厳と心の安定を守るため、離婚という選択を受け入れます。その決断には、長年の思い出と信頼が崩れた悲しみだけでなく、未来への希望も込められていました。離婚後も再婚はしておらず、現在も独身を貫いていますが、インタビューでは「良い人がいれば」と再婚への前向きな気持ちも語っています。
この離婚は、単なる夫婦の破綻ではなく、平山みきが自分らしく生きるために選んだ大切な一歩でした。彼女の誠実さと強さは、多くの人々の共感を呼び、今もなお支持され続けています。
夫の再婚とその後の関係性
ばんばひろふみは、平山みきとの離婚後に一般女性と再婚しています。再婚相手は既婚歴があり、前夫との間に2人の子どもがいた女性です。ばんばひろふみはその家族を受け入れ、現在は再婚家庭を築いています。再婚の時期は、彼がソロ活動を始めた頃と重なっており、音楽関係者との出会いだった可能性もあるようです。
一方、平山みきは再婚しておらず、現在も独身です。とはいえ、近年のインタビューでは「良い人がいれば」と再婚への前向きな気持ちを語っており、人生を楽しむ姿勢が伝わってきます。
離婚後の二人の関係は、表立った交流はないものの、完全に断絶されたわけではありません。共通の子どもである息子・高賀紘之信を通じて、一定の距離感を保ちながら関係を続けていると見られています。息子は現在、京都でボクシングトレーナーとして活動しており、両親それぞれとの関係を大切にしている様子がうかがえます。
芸能界で長く活躍してきた二人が、それぞれの人生を歩みながらも、家族としてのつながりを保っていることは、多くの人にとって温かい印象を残しています。
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平山みきと夫の家族・息子・現在の生活
息子・高賀紘之信のプロフィール

高賀紘之信は、平山みきとばんばひろふみの間に1981年5月7日に誕生しました。旧姓は馬場紘之信で、両親の離婚後に母方の姓を名乗るようになりました。幼少期は芸能人の両親のもとで育ち、音楽や芸術に囲まれた環境の中で感性を磨いていきました。
高校卒業後にはアメリカへ語学留学し、国際的な視野を広げる経験を積んでいます。帰国後、24歳頃から俳優として芸能活動を開始し、関西テレビの青春ドラマ『ダブル 複体』などに出演しました。演技力や存在感が評価され、俳優としての道を順調に歩み始めた時期もありました。
しかし、20代後半になると俳優業から離れ、ボクシングの世界へと転身します。スポーツへの情熱が高まり、2010年にはフランスへ留学してトレーナーとしての技術を磨きました。この留学経験は、彼の指導スタイルにも大きな影響を与えています。
現在は京都に拠点を置き、ボクシングジムでトレーナーとして活動しています。選手の育成やトレーニングメニューの設計などを担当し、実践的な指導を行っています。俳優としての表現力と、ボクサーとしての身体能力を融合させた指導は、ジム生からも高く評価されています。
芸能界とスポーツ界という異なる分野で経験を積んだ高賀紘之信は、挑戦を恐れず、自分らしい道を切り拓いてきた人物です。その姿勢は、両親の影響を受けながらも、自立した人生を歩む力強さを感じさせます。
俳優からプロボクサーへの転身
高賀紘之信は、芸能人の両親を持つ環境の中で育ち、若い頃は俳優としての道を歩んでいました。高校卒業後にアメリカへ語学留学し、帰国後の24歳頃から俳優活動を開始します。関西テレビの青春ドラマ『ダブル 複体』などに出演し、演技力や存在感が注目されていました。
しかし、20代後半になると、彼は俳優業から離れ、まったく異なる分野であるボクシングの世界へと進みます。この転身は周囲を驚かせましたが、本人にとっては自然な流れだったようです。両親の離婚という大きな出来事を経験したことで、自分自身の生き方を見つめ直すきっかけとなり、内面の強さを求めるようになったと考えられます。
ボクシングへの情熱は本物で、技術を磨くためにフランスへ渡り、本格的なトレーニングを受けました。その後、日本に戻ってからはプロとして試合にも出場し、実戦経験を積んでいます。肉体的な鍛錬だけでなく、精神的な集中力や自己管理能力も求められるボクシングの世界で、彼は着実に成果を重ねていきました。
現在は、選手としての活動を終え、京都のボクシングジムでトレーナーとして後進の指導にあたっています。フランス留学で得た知識や経験を活かし、独自の視点でトレーニングメニューを組み立てるなど、指導者としての評価も高まっています。俳優として培った表現力やコミュニケーション力も、指導の場で活かされているようです。
芸能界からスポーツ界への異色の転身は、彼の挑戦する姿勢と柔軟な発想力を象徴しています。高賀紘之信は、自分の人生を自分の手で切り拓いてきた人物として、多くの人に勇気を与える存在となっています。
現在は京都でボクシングトレーナーとして活躍

高賀紘之信は現在、京都を拠点にボクシングジムでトレーナーとして活動しています。俳優からプロボクサーへと転身した異色の経歴を持つ彼は、フランスでの留学経験を活かし、独自の視点で指導にあたっています。技術面だけでなく、メンタル面のケアにも配慮したトレーニングスタイルが特徴です。
彼が指導するジムでは、初心者からプロ志望の若手選手まで幅広い層が通っており、それぞれのレベルに応じた丁寧な指導が行われています。選手一人ひとりの個性や目標に寄り添いながら、無理なく成長できる環境づくりに力を注いでいます。
また、地域とのつながりも大切にしており、地元のイベントやスポーツ教室などにも積極的に参加しています。ボクシングを通じて人と人をつなぐ役割を果たしながら、スポーツの魅力を広める活動にも取り組んでいます。
芸能人の息子という肩書きにとらわれることなく、自分の足で人生を切り拓いてきた高賀紘之信。現在の姿からは、挑戦を重ねてきた人ならではの落ち着きと説得力が感じられます。彼の指導を受ける若者たちにとって、その生き方そのものが大きな励みとなっているようです。
平山みきの現在の住まいと活動
平山みきは現在、京都を拠点に生活を続けながら、芸能活動にも積極的に取り組んでいます。かつては東京で活動していた時期もありましたが、離婚後は京都に移り住み、約30年にわたってこの地で暮らしています。京都の四季や街並みに魅了され、日常的に風景を写真に収めるなど、地域とのつながりを大切にしています。
音楽活動は今も継続しており、ディナーショーやライブイベントへの出演を重ねています。昭和歌謡の再評価が進む中で、彼女の代表曲「真夏の出来事」などが再び注目され、若い世代からも支持を集めています。セルフカバーやカバーアルバムの制作にも取り組み、過去の名曲に新たな息吹を吹き込む活動を展開しています。
また、地域イベントにも積極的に参加しており、京都市内の地下街で開催された音楽イベントでは、主催者としての役割も果たしました。被災地支援などの社会的な活動にも関心を持ち、音楽を通じて人々をつなぐ存在としての役割を意識しています。
テレビ番組への出演も続いており、トーク番組では過去のエピソードや現在の生活について語る場面も見られます。個性的なファッションや色彩感覚も話題となり、特に「黄色好き」として知られる彼女のスタイルは、視聴者の印象に残るものとなっています。
年齢を重ねてもなお、平山みきは自分らしい表現を貫き、音楽とともに生きる姿勢を保ち続けています。京都という土地に根ざしながら、全国のファンに向けて歌声を届けるその姿は、今も変わらず魅力的です。
再婚願望とインタビューでの発言

平山みきは現在も独身ですが、再婚に対して前向きな気持ちを持ち続けています。2023年のインタビューでは、「好きなことをやらせてくれる人がいい」「ああ、楽しかったと言って死にたい。そのための再婚なら」と笑顔で語っており、人生のパートナーに求めるのは自由と安心感であることがうかがえます。
この発言からは、過去の結婚生活を経て得た価値観が反映されているようです。長年連れ添った夫との離婚を経験し、義理の両親との同居生活も乗り越えた彼女にとって、再婚は単なる形式ではなく、心から穏やかに過ごせる相手との出会いを意味しています。
現在は京都での生活を楽しみながら、音楽活動にも精力的に取り組んでいます。地域のイベントに参加したり、ライブ活動を続けたりと、日々を充実させる姿が印象的です。再婚については「良い人がいれば」と語る一方で、無理に求めることはせず、自然な流れの中での出会いを大切にしている様子が伝わってきます。
年齢を重ねてもなお、人生を前向きに楽しむ姿勢は、多くの人に勇気を与えています。再婚という言葉にとらわれることなく、「楽しかった」と思える日々を積み重ねることこそが、彼女にとっての幸せなのかもしれません。
がんの噂と健康状態の真相
平山みきは1995年に大腸がんを患い、開腹手術を受けています。発症の兆候はその1年前から現れており、便秘や腹痛などの症状が続いていたことから、検査を経て診断に至りました。手術は無事に成功し、がんの部位を切除することで治療は完了しています。
術後は腸閉塞の後遺症に悩まされる時期もありました。繊維質の多い食材を摂取した際に腹痛や嘔吐を起こすことがあり、点滴治療を受けることもありましたが、医師の指導のもとで生活習慣を調整し、症状をコントロールしてきました。特に京都の旬の野菜を楽しむ中で、食事との付き合い方にも工夫を重ねていたようです。
がんの告知を受けた際も、平山みきは冷静に受け止めており、「不運だと思ったことは一度もない」と語っています。家族から病名を知らされたときも、驚きよりも納得の気持ちが強かったと振り返っています。治療に対して前向きな姿勢を持ち続け、医師の助言に従って日常生活を丁寧に整えていったことが、回復につながったといえます。
現在は健康を維持しながら、音楽活動やメディア出演を続けています。ライブステージでは明るい笑顔を見せ、ファンとの交流も積極的に行っています。年齢を重ねてもなお、エネルギッシュな姿勢を保ち続けており、がんを乗り越えた経験が彼女の人間性をさらに深めるきっかけとなっています。
芸能活動を続ける姿とファンの声

平山みきは現在も精力的に芸能活動を続けており、ステージに立ち続ける姿が多くの人々に感動を与えています。昭和歌謡の黄金期を彩った彼女の歌声は、今もなお色褪せることなく、ライブやイベントで披露されています。代表曲「真夏の出来事」はセルフカバーとして再リリースされ、往年のファンだけでなく若い世代からも注目を集めています。
近年では、ジャズやロック、バーレスクとのコラボレーションなど、ジャンルの垣根を越えた挑戦も行っており、音楽への探究心は衰えることがありません。新宿2丁目のドラァグクイーンとのショウを企画するなど、自由で柔軟な発想を持ち、常に新しい表現を模索しています。
衣装にもこだわりがあり、長年「黄色」をイメージカラーとしてきましたが、最近では黒や白、赤などの新しい色にも挑戦しています。ファッションを通じて自分自身の変化を楽しみ、観客にもその魅力を伝えています。
ファンとの交流も大切にしており、ライブ会場では気さくに声をかける姿が見られます。SNSやイベントを通じてファンとの距離を縮め、長年応援してきた人々からは「いつまでも変わらない魅力がある」「歌声に元気をもらえる」といった声が寄せられています。
昭和の時代から令和の今に至るまで、平山みきは時代の変化に寄り添いながら、自分らしい音楽を届け続けています。その姿勢は、単なる懐かしさではなく、今を生きる力強さとして、多くの人の心に響いています。
平山みきと夫の歩みから見える人生の輪郭
- 平山みきと夫は音楽番組の共演で出会った
- 1977年に結婚し芸能界のおしどり夫婦と呼ばれた
- 息子の誕生後も家庭と芸能活動を両立した
- 夫の不倫が離婚の直接的なきっかけとなった
- 離婚後も夫の両親と同居を続けた時期がある
- 義両親との生活は約4年間に及んだ
- 離婚を決断した背景には深い葛藤があった
- 夫は離婚後に一般女性と再婚している
- 息子を通じて夫との関係は一定の距離を保っている
- 息子・高賀紘之信は俳優からボクサーに転身した
- 現在は京都でボクシングトレーナーとして活動中
- 平山みきは京都を拠点に芸能活動を続けている
- 再婚については前向きな気持ちを持っている
- 大腸がんを克服し現在も元気に活動している
- ステージでの姿勢がファンの共感を集めている
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